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【アラベスク】  第2章 真紅の若葉



第3節 焦慮 [3]




 放火の件は、その後警察からは何の連絡もなく、中途半端なまま数日が過ぎていった。
 そもそも放火かどうかも定かではない。火元が大迫親子の部屋の真下であることは間違いないが、空き部屋にこっそり潜り込んだ浮浪者がいなかったとも言えない。
 もともとボロいアパートだったし、毎日大家が空き部屋のチェックをしていたワケではない。住人は学生や外国人がほとんど。ちょっと身なりさえ良くしてしまえば、住人に紛れ込むことはできる。
 当日は真冬ほど乾燥はしていなかったはずだが、建物自体は木造の古アパートだ。不法侵入者がその辺りに投げ捨てた、消えきっていなかったタバコの火が原因でも、おかしくはない。
「考えすぎじゃねーの」
 のんびりした聡の声に苛立ちを感じながらも、それ以上火事の件に気をまわさないよう心がけた。

 考えたって、しょうがない

 以前、覚せい剤絡みの事件に巻き込まれた時、それを学んだ。
 あれこれ考えたって、わからないものはわからない。気にしたって、しょうがない。
 それに、今はもっと他に考えなくてはならない事柄が山のように積みあがっている。
 美鶴は、目の前に広げたノートと教科書へ視線を落した。
 霞流慎二が用意してくれた、真新しい教科書。
 富丘(とみおか)には、やはり唐渓(からたに)の生徒が何人か居住しているらしい。美鶴が霞流邸に身を寄せているという話は、あっという間に広まった。
「どういう間柄(あいだがら)なんだい?」
 (いぶか)しげに尋ねてくる男子生徒などはまだ可愛いもので
「私のお父様は、学生時分に霞流さんが駅で貧血を起こした時、お助けしたことがありますのよ」
 などと、だからなんだと言いたくなるようなくだらない話題で対抗心を燃やしてくる女子生徒などは、正直相手にするのも疲れる。
 だいたい、貧血を起こした霞流って、誰の事言ってるのさ
 父親の学生時代の話って言うんだから、霞流慎二のことではあるまい。
 だが一番ウザいのは、そこに嫉妬心を上乗せしてくる生徒。
「霞流さんとお知り合いだからと言って、山脇くんと釣り合いが取れるワケではありませんのよ」
「そのブラウスも、どうせ霞流さんにご用意して頂いたのでしょう? 大迫さんのような方に、用意できるはずもありませんものね」
 霞流家に依存しきっている、恥知らずな貧乏人。そんな視線が降り注がれる。
 相手にするな
 そう言い聞かせるも、穏やかではいられない。
 ―――――悔しい
 だが、今の大迫親子にはなす術もない。結局霞流家に居候(いそうろう)する日々。

 霞流慎二との同居生活。

 豪邸なので、一つ屋根の下で暮らしているという実感がない。だが、朝食と夕食時には顔を合わせ、休みの時には庭を散歩する姿を見ることもある。
 ………なんとなく、わからない。
 普段、美鶴が学校へ行っている時には、何をしているのだろう? 仕事はしていないと言っていたが……
 年齢も知らない。そもそも、どうしてこんなに親切にしてくれるのか、はっきりとした理由も教えてもらっていないような気がする。
 母の詩織は仕事のため、毎日昼過ぎになるとケバケバと()けては出かけていき、明け方には帰って来る。水商売人などが出入りしていては近所の視線も気になるモノだが、母の行動を(とが)める素振りも見せない。

 わからない

 金持ちの思考は、一般人とは違うモノなのだろうか?
 だが、わざわざ聞くのもなんとなく品がないような気がして、なかなか理由も彼の素性も知ることができない。

 ………品がない

 自分の心内に浮かんだ言葉に、美鶴は焦りのようなものを感じた。
 品など…… 品格など、気にするような自分でもないだろう。そんなものは、頭空っぽの金持ちが気にするような事柄だ。お前はそんな無能な人間ではないはずだ。
 言い聞かせ、唇を噛む。

 何かが―――― 変だ。

「美鶴さん」
 突然呼びかけられて、ハッと息を呑んだ。
「なんだよ?」
 駅舎の中。向かいに座る聡が、目を丸くして見返してくる。
 名を呼んだのは、彼ではない。聡は"美鶴さん"とは呼ばない。
 少し激しさの増した動悸(どうき)を悟られないよう視線を落す。そうして、脳裏に響いた霞流の声を振り払うかのように、目の前の教科書を掴みあげた時だった。
「邪魔するよっ」
 少し苛立ちのようなものを含ませながらも、新緑の午後にふさわしい爽やかな声。駅舎の中に沁み入るような、風を含ませる。
「邪魔するな」
 冷ややかな視線と言葉を投げる聡。だが山脇は、余裕で片眉をあげる。
「その言葉、無駄だと思わない?」
「思わないね」
 間髪入れずに切り返してくる相手に肩を竦め、視線は美鶴へ。
「これから、ちょっといいかな?」
「私?」
 眉をひそめ、疑うように首を傾げる。山脇はそんな美鶴の脇までゆっくりと歩き、口元を緩めた。
 片手をポケットに突っ込んだままスラリとしたその立ち姿は、それなりに絵になる。
「何よ?」
 高い位置から見下ろされては、いい気はしない。
「面倒なことなら御免だからね」
「面倒かどうかはわからないけど、君の役には立つと思うよ」
「役に立つ?」
「何だよそれ?」
 親指の爪を噛みながら、聡が言葉を挟む。だが、山脇は別に腹を立てることもない。
「君も来る?」
 むしろ楽し気に視線を返され、さすがに聡は目を丸くした。







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